「静岡は穏やかですね。良い意味で、のんきとでも言いましょうか」と、故郷の静岡を振り返ってくれたのは、劇作家のマキノノゾミ氏。静岡に生まれ、京都で学生時代を過ごし、東京で活躍する氏だからこそ、静岡の美点にセンシティブになれる。
「例えば、金沢だと、京都に対抗して北陸の小京都と言いますし、福岡であれば、東京に対する強いプライドを持っていますよね。中央に負けない! というぎらぎらした競争心と向上心があるわけです。しかし、僕の育った当時の静岡には、そうした意識はほとんどなかったような気がします。それどころか、東京と静岡は全く同じ文化圏だくらいに思っていました(笑)。京都の大学に入学して、他府県出身の人たちと出会うまで、自分が地方の人間だという意識すらなかった。のんきにもほどがある(笑)」
(左)徳川家康が眠る久能山東照宮へ続く坂道。(中)駿府城跡には弥次さん喜多さんの姿が。(右)羽衣伝説の残る三保の松原。
中央に対するコンプレックスがない分だけ、「人心が穏やか」と語るマキノ氏。そうした美点を助長するのが温暖な気候だという。
「雲が垂れ込める北陸の冬とは対照的に、太平洋に面した静岡の冬はよく晴れています。それが人々の考え方を明るく、和やかなものにしているのでしょう。考えてみると、僕の作風もそうした風土を反映しているのかもしれません。
人間のダークサイドとブライトサイド、どちらを描きたいかと言われたら、確実に後者ですし、実際に明るくのんきな人々が僕の作品には登場します。
そもそも演劇の世界に足を踏み入れたのも、最初から一旗上げてやろうという志を持ってというわけではなく、学生時代に芝居をやっていた友人に誘われて学生劇団のお手伝いをしているうちに、なし崩し的にやり始めたようなものですから(笑)、それも静岡的と言えるかもしれませんね」
静岡気質を体現するかのようなマキノ氏の視点は優しい。歴史のなかで不名誉の烙印を押されてきた人々に暖かい陽の光を向けてみる。例えば、今年11月に『マキノノゾミ三部作』として上演される作品『フユヒコ』『赤シャツ』『MOTHER』には、そうした氏の作風がよく表れている。

明治になって、静岡で蟄居を命じられた15代将軍徳川慶喜が住んだ屋敷跡に建つ「浮月楼」には、ほぼ当時のままの庭が残る。
「『フユヒコ』は、物理学者で随筆家の寺田寅彦をモデルとして、彼の三番目の妻との生活を描いた家庭劇です。二人には諍いが絶えなかったらしく、世評では彼女が悪妻だったことになっているのですが、本当にそうなのかなぁと。本当に悪妻だったとしたら、夫婦として長続きはしなかったはずだと思いまして。だから、彼女のブライトな一面に光を当てれば、これまでとは違った解釈ができるのではないか、そう考えたのです。
『赤シャツ』も同じ発想に基づいています。夏目漱石の『坊っちゃん』に登場する赤シャツは悪者として描かれていますよね。でも、あの小説は一人称で、あくまでも坊っちゃんの視点から語られていますから、赤シャツが悪いやつだというのは、実は彼の主観にすぎない。本当はわりと良いやつなのに、坊っちゃんにことごとく誤解されていく(笑)、そういうストーリーを描きました。
『MOTHER』の主人公の与謝野晶子も、しんねりとした女性として描かれがちですけど、あれだけ膨大な量の作品を残しながら、同時に十人以上の子どもを生み育てたお母さんなんだから、基本的に力強くて、家庭が明るくないはずがないんです(笑)」
世間によってネガティブなレッテルを貼られてきた者たちのオルタナティブな側面にフォーカスし、過去から救い出す。和やかな静岡気質を受け持つマキノ氏だからこそ為しえるのだろう。

ペルリが歩いたと言われる下田の「ペリーロード」。今では映画のロケ地としても有名だ。
ところで、静岡には、駿府・徳川家康の足跡があちらこちらに残る。
マキノ氏の出身地・浜松はかつて徳川家康と武田信玄が激突した三方ヶ原がある。この戦に敗れた家康が、敗走の途中で小豆餅を食べた茶屋があった場所には小豆餅という地名が今でも残り、さらにこの餅を食べている最中に追撃にあい、代金を支払う暇なく逃走したために、茶屋の老婆が追いかけてきて、彼女が家康から銭を受け取った場所が、銭取と言われていた、そんなエピソードをいつ、誰からともなく聞かされたという。
「家康と言えば、以前、戦国武将占いをしたところ、僕の性格は徳川家康と判断されて、ちょっとガッカリでした。武将なら信長の方が断全カッコいいですもんねえ(笑)」
だが、「鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス」とは、まさに氏の姿勢を言い当てるかのような詩だ。ローカルマインドを武器に人間に迫ろうとする、そういう作家を生んでしまうのが、静岡の凄みだろう。
静岡と言えば、もう一つ忘れてはいけないのが、開港地・下田の存在である。マキノ氏がいう天候の良さを見事に表す伊豆半島の南端にある街。1853年、ペルリ率いる米国艦隊が浦賀沖に来航し開国を要求。「黒船」の威容を目にした人々は、それまで貪っていた太平の惰眠から目覚めることになる。「神州への夷狄の侵入をするまじ」と考えた人々は盛んに「攘夷」を唱えたが、当時の幕府に米国と一戦を構える力などなく、54年に日米和親条約を締結。箱館港とともに、ここ下田港が開港されたのである。
そんな折、ある志を胸に、この地を踏んだ男がいた。後に、萩の松本村で松下村塾を継ぐ松陰吉田寅次郎である。
世界と日本との、軍事力をはじめとした力の差を知った松陰は、「神州を守るためには、外国の文物を知ることが必要」と考え、密航を決意。弟子の金子重輔とともに、下田でペルリの船に小船で乗りつけ、米国渡航の旨を伝えるが、あえなく失敗。
当時、海外への渡航は国禁とされていたため、二人は江戸の伝馬町の牢獄に入れられ、萩へと送還されてしまう。その後、自身は井伊大老による安政の大獄で、回天を見る前に刑死。密航失敗の際に「世の人はよしあしことも言わば言え、賤が誠は神ぞ知るらん」と純心を詠った。
萩同様に、下田でも「松陰先生」と今でも敬意と親しみを込めて呼ばれている。下田港から吹く潮風に、松陰先生の士魄を感じたい。
(左)今も、踏海を試みた吉田松陰とその弟子・金子重輔の気魄を讃える。(中)「大攘夷」を実践するため、下田で密航を企てていた吉田松陰が身を隠していた部屋。(右)松陰らは、ここ弁天島で暗くなるのを待ち、沖に停泊する「黒船」へと向かった。
(左)日米和親条約付録下田条約の締結の場所「了仙寺」。(中)日本初の米国領事館「玉泉寺」には、黒船の船員たちも眠る。(右)艦隊を率いて、日本に開国を迫ったペルリ提督。彼が実際に上陸したと言われる場所に立つ胸像。
マキノノゾミ劇作家・演出家。日本劇作家協会常務理事。1959年、静岡県浜松市生まれ。同志社大学文学部卒業。劇団M.O.P.主宰。1997年に『東京原子核クラブ』で第49回読売文学賞、98年『フユヒコ』で第五回読売演劇大賞優秀作品賞、01年『黒いハンカチーフ』『赤シャツ』で第36回紀伊国屋演劇賞個人賞、08年『殿様と私』で第15回読売演劇大賞優秀作品賞など受賞多数。02年度後期NHK連続テレビ小説『まんてん』の脚本を担当する。2008年11月4日より名作の誉れ高い『フユヒコ』『赤シャツ』『MOTHER』が、紀伊国屋ホールにて『マキノノゾミ三部作』として一挙上演される。
公式HP:
http://www.seinenza.com/makino3/index.html